Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
ぶるっくりん

見開き   最大化      



 精神的な不安定が続いている。
 コンサータを飲んでるせいか攻撃性が増している。それがストレスによるものなのかわからない。そもそも「毎日がつまらん」だけで瞬間沸騰しそうになるんだから病気だ。まわりから「普通はそこまで怒らない」と言われる。俺はすぐ怒る。
 怒っているときだけ生きてると感じる。楽しくはない。むしろつらい。

 ギーツで何を話そうとしたのか思い出した。
 もう正義が悪を倒すという構図の話は難しいのかもしれない、という話。
 今や何が悪で何が正義かなんてものは分からなくなったし、リアリティもない。
 だから戦いが「ショー」として消化されるというのは、自然な流れなのかもしれない。
 現実は変わらない。戦いに勝ってもそれは一時的なものであって、やがて大きな妥協の流れに飲み込まれる。
 俺の世代はそういうものしか見てきてない。世の中はちっともよくならない。
 だから「勝てば変わる」というもののリアリティのなさが凄い。
 それでも戦う物語を描くのであれば、それは戦えるやつがショーの見世物として消化される、というのが現実的なのかもしれない。
 ユーチューバーみたいに無茶なことをやって再生数を稼いだり。
 とにかくメディアミックスして雇用を生み出そうとする創作物みたいに。
 勝てば変わる、強ければそれでいい。そんな純粋さは消えた。
 戦う能力を持ち、幸せに生きられないやつは見世物になるしかない。
 それがこの世の真実なんだろう。
 効率よく負けずにアベレージで勝つ。まさにアカギが否定した偽アカギのような生き方こそ長生きの秘訣。
 それを拒否すれば死ぬ。
 それでいいのかもしれん。

 我慢して我慢して我慢して我慢して。
 なんにもならない。
 世界は変わらないし、楽しいことなんて何もない。
 疲れるだけだ。
 



 ブルックリンナインナインを見ている。
 俺は海外のホームコメディはわりと好きなほうだった。昔よく笑い声を挿入してワッハッハみたいに急に鳴り出すやつ。最近はあの手法は廃れたらしい。
 釣られて人は笑う、というのはたしかに真実で効果的だけれども、作り物の笑いを挿入して客を誘導するのはフェアじゃない。よく考えれば汚い手だ。
 そういうのが廃れたのはいいことだと思う。できればストレートなほうがいい。
 ブルックリンはそのへんわりと直球の作りをしているし、なによりあっさり見れる。
「誰も不幸にならないコメディ」と誰かが言っていたけれども、誰かの不幸を見て笑う系のコメディは俺は嫌いだ。そいつが可哀想になる。そしてゴミどもを一掃しピエロにされた者たちだけの理想郷を作りたくなる。はやくこの世界に終わって欲しい。俺たちだけの理想郷をつくるんだ。
 そんなことはいい。
 ブルックリンは無理のないシナリオづくりをしてると思う。毎回最初に一瞬で終わるショートコメディを入れてからオープニングが始まる。本編は基本的に複数のストーリーがあって、AパートBパートCパートくらいが交互に切り替わる。つまりいつテレビをつけてもどこかのパートの切り替わりから見れる。そういう効果も予測しているのかもしれない。とにかく見やすい。
 一本の長いストーリーは書き手への負担も大きいし、こういうサブストーリーを複数で並行展開するのは視聴者にも脚本家にも優しい気がする。昔は一本のネタがあったら膨らませれば時間が稼げるじゃないか、みたいなのが主流だった。今はそんなことしてたらすぐ飽きられて捨てられる。だから脚本術のクオリティは昔に比べて向上していると思う。向上しすぎても収束してしまうが。

 俺はホルト署長が好き。最初は堅物のロボット署長とか言われてたけどコミカルな部分が少しずつわかっていくのがいい。最初は堅物署長を嫌がっていた主人公のジェイクが署長とちょっとずつ仲良くなっていくのもいい。お説教くさくもない。
 刑事モノだけれども刑事モノのお約束みたいなものは無視しているように思えるし、ホームコメディとスクールコメディの中間のような雰囲気がある。狭い警察署の中での各人の役割は疑似家族のようでもあるし、いちおうは警察組織なので学校のような組織モノとしての要素もある。警察モノというのは息が長いジャンルだけれども、それを便利に取り扱っているように思える。ただのホームコメディやスクールコメディだと特殊な要素を無理やり入れたり(別に悪いことじゃないが)、現実との比較や没入感の欠如(現実を思い出してしまう)リスクがあるけど、警察モノならほとんどの人が実態を知らないから自由に空想できるゆとりがある。本物の警官はモヤモヤするかもしれないが。
 家族のようで家族じゃない関係、というのは落ち着く。俺は現実で家族とうまくいかなかったし(さっきも父親が土鍋で米を炊いて底をこがすのでキレそうになった。俺も昔は土鍋で米を炊いていた。別に美味くない。あんなのはおままごとにすぎない)、職場でも別に仲良しがいるわけじゃない。そのどちらの需要も満たせるブルックリンの99分署というのは、俺から見るととても落ち着くシチュエーションだった。無能でも存在していい、というのがいい。スカリーとヒッチコックの役割はそういうところにもある。悪く言えば下がいれば落ち着く、ということになるけれども、下になっても居場所がある、という安心感でもある。
 これがクイーンズ・ギャンビットなんか見た日には鬱になる。あれも途中まで見たけどしんどいドラマだった。また見たい気がする。クイーンズ・ギャンビットもそうだ。特殊な才能を持った人間は見世物になるしかない。鬱になる。
 俺はもう現実でほとんどの友達と絶縁してしまったし、仕事の関係上で旅行に一緒にいったりもできない。だからほとんど没交渉で、こうやって文章を書きなぐる以外にコミュニケーションがなくなってしまった。これだって読まれるために書いてるわけじゃない。俺が書きたいから書いてる。
 だから最近は孤独な人間がどうすればコメディを書けるか考えたりする。クイーンズ・ギャンビットみたいなやつばかり書いていたら鬱になる。かといってブルックリンみたいな明るいコメディは難しい。そもそも俺自身が攻撃的でとても愉快な人間じゃない。
 それでも、負の感情について語るなら、正の感情についても語るべきだと俺はうっすら考えたりする。もう嬉しいとか楽しいとかよくわからないけれども、愉快なだけじゃなくてもいいから、正の感情を味わいたい。負は常に感じてる。もう充分だ。
 面白いってなんだったかな、と思う。友達がいなくなってしまったから、「後藤シリーズ」みたいなのはもう書けない気がする。あんなふうに男友達三人組でバカをやる、みたいなのは、もう俺の人生では起こらない。「顎は変わらないからうんざりだ」といって俺から離れていったやつは数え切れないけども、俺は絶対に変わらなかった。変われなかった。岡本太郎が「何十年も同じ道を進んできた、直進しかしてきてない」と言っていたけれども、俺もそうだ。自分を曲げたのは労働を始めた時だけだ。本当に労働なんてくそくらえだ。つまらん。
 孤独で、愉快なこともないのに、どうやってコメディを作ればいいのか。
 その過程に興味がある。
 キューブリックの「博士の異常な愛情」みたいなブラックコメディはどうかと思う。あれは面白いけどキューブリックの性格の悪さが滲んでいるだけで、負の感情を正として出力しているだけというか、オペアンプか?って感じがする。あれは俺は目指したくはない。面白いけど。

 コメディで思い出したけど、「デスパレートな妻たち」は俺は疑問だ。
 実は昔、アプリだったか街コンだったかで繋がった女の子からオススメされた。無論すぐ連絡は終わったけれども、当時の俺は「女子に馴染むためなら魂も売る」という感じで、大人しくデスパレを見ていた。
 シーズン1で見るのをやめた。
 クリフハンガーがひどい。
 俺はずっとクリフハンガーを嫌ってる。いくらなんでも、シーズン1の最終回で、シーズン2を作りたいからって、話を途中でぶっち切るのは卑怯だと思う。話としてまったくオチていない。続きが気になるようにするのと、物語の構造として破綻しているのは違う。あまりにもムカついたから、ウィキでその後の展開のネタバレを全部見てやった。これでヤキモキしなくて済むしシーズン2以降を見る時間も浮いた。
 べつにつまらなかったわけじゃない。要所要所は面白かったし人気なのもわかる。それでも俺はあのシーズン1のクリフハンガーは許せない。
 じゃあブルックリンはどうなんだ、と言えばシーズン1の終わりに確かにクリフハンガーはあったけど、物語としていちおうの着地はしていた。続きが気になる形にはするけど、ここで終わりでも余韻は残しておくよ、と。これがスジってもんだろうと思う。じゃないとシーズン1を見てくれた視聴者に失礼だ。何か信念があってやっているならともかく、「こんな中途半端な終わりにすれば嫌でもシーズン2を見たがるだろう」なんてのは人間をバカにしてる。俺は嫌いだ。
 だからブルックリンの脚本家は、そのへんをわかってるんだろうと思う。「やるやつもいるけど、自分はそうしないよ」というのが伝わってくる。こういう点を大事にしないと、何をやってるのかわからなくなる。
 もう今の世の中はあっちもこっちもなにやってんだか、なにがしたいんだか俺には意味不明だ。無駄に混乱する。イライラする。受け付けない。
 疲れる。







       

表紙

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha