Neetel Inside ニートノベル
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わが地獄(仮)
今週のギーツ

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 最近、ギーツを見ていると「もう半分経ったのに、話が進んだ気がしない」という意見を見る。そして「エグゼイドはもっと話が進んでた」とエグゼイドと比較される意見も見る。
 気持ちはわかる。ただ、これは構造上の問題として仕方がない。
 ギーツは基本的にエピソードシーズンごとにプロットを組んでいて、その中で大小の寄り道をしつつ、基本的にはストンストンと話を運んでいくタイプの作り方をしている。
 対して、エグゼイドは毎話ごとに変化があり、どのエピソードも抜けない!と言われていたほど話の密度が濃かった。比較すれば当然、エグゼイドのほうが話が進んでいたのは当然の話だし、やむを得ない。
 それだけを見て、ギーツはエグゼイドに劣っていると判断するのはどうかと思う。というのも、ギーツの見やすさや話運びの安定感には、シーズンプロットの効果が出ているし、それを切ってもエグゼイドがいい!といったところで、あのタイプの話作りは脚本家の脳が暴走状態になっていないと生まれない。だから、どれほどエグゼイドの再来を願っても無駄だ。作者にすらおそらく再現できない。
 そういうものだけを求めて無理をすれば、おそらくシーズンプロットすら組めずに話が崩壊する。ギーツは、それを防ぐための苦肉の策で出来ている。
 確かに、俺個人としても、ブースト2が出ても特に幹部を倒したわけではなく、それどころかレイザーブースト2でさえベロバを倒せず終わったというのは、かなりカタルシスに欠けると思った。
 ただ幹部を殺せばいい、という話じゃない。たとえばドラゴンボールなんかは、敵を殺さずに話をふくらませる手法を取っているし、『殺せばそれで終わり』の原則は確かにある。
 ただ、ベロバを帰還させただけ、というのがレイザーブースト2のお披露目としてはかなり物足りなかった、という事実がひとまず俺の中にはある。とはいっても、それはシーズンプロットで組んでいる上でやむを得ない。後半でベロバに別の役割があるのに、今ここで処理するわけにはいかない。
 そういった「仕方ない」に対するエグゼイドの解答が、序盤のキリヤさんクリスマスの惨劇なんだけども、じゃあ毎回クリスマスに惨劇を起こせばいいのかと言えばそれも違う。結局のところ、エグゼイドは大インパクトが強すぎた。そのインパクトを求めれば、どんな物語でも物足りなくなるのは当たり前だ。客の目が肥えているとも言う。
 俺含め気の毒なんだけれども、エグゼイド級のインパクトを味わったら、もうまともに「しっかり作られた」くらいでは満足できなくなる。だから俺がいつも言っているように、面白すぎる、というのは呪いでもある。みんな満を持して俺と一緒に呪われているわけだ。


 シーズンプロットで組む以上、後半を崩壊させないためにベロバは殺せない。それに加えて、必要であれば、タイクーンやナーゴを都合のいいお助けキャラとして何話か使うしかないのも、よくわかる。
 ギーツの話が進んでいないと感じるのは、タイクーンやナーゴの願いの物語がまったく進展していないからだ。基本的にはデザグラの謎とギーツの謎を追いかけているわけで、タイクーンの世界平和への思いや、ナーゴの本当の愛探しは、かなりぞんざいに扱われている。それもシーズンプロットで組む以上はやむを得ない。進行させるべき主題があり、それに尺を持っていかれる以上、タイクーンやナーゴに話を割くのは難しい。
 これはギーツという作品そのものが、話を組む上でかなり難しいということだと俺は思っている。
 エグゼイドは基本的に全員バラバラの思想によって行動していたが、バグスターウイルスをどうにかするという目的は一致していた(神はともかく)。対してギーツは、願いがそれぞれ別であり一致せず、ただデザグラという舞台だけを共有している。だから敵にもなるし味方にもなる、という自由度と引き換えに、仲間意識が深まりにくい。なのに、タイクーンやナーゴはお人好しなので、正義感からギーツを助けたりする。ここに都合のよさを感じなくもないが、それを言っても仕方がない。
 これに「NO」を突きつけるなら、シーズンプロットも、わかりやすい物語も諦めなければならない。最大多数の幸福ではなく、『それでは絶対に満足しない極少数のやつら』を満足させるために、作者が暴走しなければならない。
 たとえばガシャコンスパローが発売されたばかりなのに、それを使っていたキリヤさんを退場させるとか。
 あんなのは商業上ではやってはいけない話づくりで、たぶん問題になったはずだと思う。『こういう新アイテムを売り出すんですけど使ってるやつ脚本家が死なせました』じゃ会社員なら怒られる。
 だからこそ、あのキリヤさん退場はものすごく面白く、俺にインパクトを与えた。
 やってはいけないことだから。
 やってはいけないことこそ、面白い。ただ、それをやってしまうと、ビジネス上で大問題が発生する。
 いつだってその繰り返しだ。
 だから、ギーツはそういう大問題をあえて避けている節を俺は感じている。上から「やめてくれ」と言われたら、脚本家はそれをやめて、なんとか収まりのいい話を作るだろう。
 その「収まりのいい話」を、俺たちはギーツとして見ている。
 だから、あくまでシーズンプロットに収まる範囲での驚きしかない。それを物足りなく感じるのは当たり前の話だ。
 エグゼイドは短距離走で、フルマラソンを走りきった話だ。対してギーツは、きちんとしたペース配分でフルマラソンに挑んでいる。俺はそれに対して作者を否定したくない。
 そもそも、短距離走をフルマラソンでやれ、それを当然だと思わせろというのは傲慢だし無理がある。どうしても欲しいなら、自分で作るしかない。血反吐を吐きながら。なぜかうまくいかない構図に頭をかきむしりながら。
 フルマラソンになるのは、やむを得ない。
 鎧武の虚淵が脚本をやったときに「天下の仮面ライダーが、50話も走るのにまともなプロットを作ったことがないだと……?」と驚愕していたという噂を聞いたことがあるけれども、確かにプロットはあったほうがいい。ロードマップとして、それを失ったら、物語として迷走したり客がキャッキャするおふざけに走ったりする。たとえば妖怪ボタン探しとか悪ノリが始まる。それくらいならプロットがあったほうがマシだろ、と言われれば、俺もそうだろうと思う。
 ただ、完全に組みきったプロットは一切の驚きも、自然さもない。
 エグゼイドは「神って復活させて仲間にする予定だったけど、こいつそんなやつじゃないって思ったから、やめた」とか、そういう無茶をやっていた。ライブ感といえばそうだし、『直感に即時GOを出せた』という環境もあったと思う。少なくともギーツに直感や即時GOを感じたりは、俺はしない。
 こいつってこうだよな、と作者が思ったら、それに殉じてそのさきのプロットをすべて変更してしまう。それを強引に矯正するのは不自然だから。
 俺は、そういう考え方で話をつくるタイプを鳥山明タイプと呼んでいるんだけども、今となってはこういうイレギュラーが許されない時代になってきた。
 そのぶん、しっかり作られているはずなのに、なぜか収まりが悪いような、気味の悪さ、不自然さをいろんな作品から感じる。それが絶対的に間違っているわけではないにせよ、不自然さとして感じてしまう、というのは一つの事実としてある。
 プロットの持つデメリットがこれだ。プロットのあるメリットばかり目がいって、デメリットを考えないと、こういう目に遭う。
 安定した話運び、たとえばギーツのようにシーズンごとに驚きや急展開を与えたい、というのを第一にすれば、こういうプロットの組み方になる。それまで謎だったものが、時間が経って開封の時期になったらさほどのジレンマもなく謎が解き明かされる。日曜日に眠ったら、月曜日に目が覚める。なにかまかりまちがって金曜日まで寝過ごすこともない。そういう決められたサイクル。
 しかしどう考えたって、日曜日に眠って金曜日に目覚めたほうがびっくりするに決まっている。
 しっかりプロットさえ組んでいればいい、というのは間違っている。
 本当に受け手が望み、驚くような展開は作者の純粋さから出る。その純粋さにノイズが混じった時点で、どこまでいっても100点のモノしか産まれない。380点とか、4300点の話なんて出てきやしない。
 けれどもその100点を諦めて、何十年も4点とか、8点とか、めちゃくちゃな話運びに我慢しろといっても、無理だろうと思う。それは受け手に覚悟と度量を求める。疲れて帰ってきて、楽しみにしていた録画を再生して、とんでもないクソが出てくる日常を受け入れろと言っているに等しい。
 人間は贅沢を忘れられない。それでもやるならもう、エンタメというより、なんらかの修行僧だ。信念がなければ出来ない。
 たとえばブレイドはエンディングがよかったから、前半のすべてを許せといっても無理がある。俺だって無理だと感じる。けれども、それを乗り越えた先のイレギュラーにしか、ブレイドのエンディングは存在しない。
 どっちを取る、と言われて、困らないやつはいないと思う。そしてやっぱり、最低限の品質保証を取るんじゃないかと思う。俺がそれを蹴りたいと思うのは、俺がとんでもないレベルの頑固者だからだ。みんなにそれを強いるのは無理がある。
 無理がある、無理がある、無理がある。
 仕方ない、仕方ない、仕方ない。
 やむを得ない、やむを得ない、やむを得ない。
 理屈の先にあるのはいつだってそんな言葉ばかりだ。


 ここまで、読んできて、俺自身がギーツを擁護したいのか批判したいのか、わからなくなってきた。
 たぶん、俺のわがままな部分はギーツを否定しているし、理屈の部分ではギーツを擁護している。分かつことができない。
 例えば、俺好みの話であるなら、タイクーンの枠に、世界滅亡を願ったバスケ部員がいたと思うけど、あいつを置く。世界なんて滅びればいい、という理由で戦っているやつが、ほかのやつの願いに触れて、それでも世界滅亡を願うか、それともやめるか、みたいな話にする。
 もちろんオモチャを売ったり健全な家庭のパパママも見る番組で「こいつ世界滅ぼそうとしてるんだよ!」なんていうヒーローを作れるわけがないから、これも『ダメ』である。
 ビジネスには『ダメ』がたくさんある。そしてその『ダメ』が多ければ多いほど、脚本家には打つ手がなくなる。可哀想だ。
 いつだったか、ライダーの映画の感想で「春映画なんて、なんかトラブルがあって、それを先輩後輩ライダーが協力して倒す。それでいいんだよ。小難しい話なんていらない」という意見を見たことがある。確かにそういう需要もあるし、わからないでもない。最高瞬間風速なんて、喜ぶやつもいれば、目が乾燥するだけで鬱陶しい、というやつもいる。
 みんなが幸せ、みんなが満足。そんな答えは存在しない。

 批判が続いたような気がするので、最近よかったシーンを思い出すと、ジーンがギーツを殺されそうになったときに「嫌だ!」と叫ぶシーンがある。
 これは短いセリフなんだけど、とてもよくできている。
 普通の脚本家ならまず間違いなく手癖で「やめろ!」と書く。それでなんの問題もないから。
 ただ、ギーツの脚本家は「嫌だ!」と叫ばせた。それはなぜか。
 俺の妄想にはなるけれども、ジーンというのは、結局は娯楽としてデザグラを楽しんでいるオーディエンスだ。
 だから、「自分が嫌かどうか」という主観から見たギーツの死という状況に対して「嫌だ!」と叫んだんじゃないかと思う。
 ようするに、自分のモノだと思っているから。
 自分に物事を左右する権限があると思っているから。
 そういうエゴが、瞬間的に発せられたセリフなんじゃないかと俺は思う。
 最新話で、死についていろいろ思うところがあったのか、いいやつふうに去っていったけれども、少なくともあの時点で、死を感じる寸前まで、ジーンというのはエゴイストとして描かれていたように思う。
 俺の考え過ぎかもしれないけれども、あそこで「嫌だ!」と叫ばせられる脚本家というのはほとんどいない。そんなところで物議をかもすセリフ(たとえばニブイやつが現場にいたら、ここはやめろでいいじゃんとか言い出す。バカだから)を打つくらいなら、収まりのいい「やめろ」にして濁すやつもたくさんいると思う。それが処世術だったり、なんやかんやだったりするんだろう。
 俺は嫌だ。

       

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Neetsha