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わが地獄(仮)
露伴見てきた(ネタバレ感想)

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 岸辺露伴を見てきた。ネタバレする。

 感想としては、面白かった。俺は原作のルーヴル編を読んでいないんだけれども、充分に楽しめた。それはともかくとして、ルーヴル編がもう十数年前の作品らしいけれども、この十数年一度もルーブル編をそろそろ読むかと思うタイミングがないまま生きていたかと思うと、現代社会は本当につまらなくてろくでもないなと思う。なんて余裕のない世界なんだ。

 露伴がヘブンズドアを使うシーンはいつ見てもカッコイイなと思う。顔が紙になってしまうのも、特撮技術なのか、CGなのか、俺には見分けがつかないけれども、リアリティのある表現が映像化されていて凄いなと思う。
 完全にガチガチのCGというわけでもなく、かといってレトロすぎる特撮技術でもない、ちょうどいい案配。作品の根幹に関わる演出が技術的に無理なく映像に組み込まれているというのが、俺は好き。

「今ではこんな凄い技術が映像化できるんですよ、夢みたいでしょう」

 みたいな技術レベルだけで売ろうとしてくる作品は俺はいつ見てもヘドが出るし好きじゃない。
 作品のウリにするほどのパンチはないが、間違いなく作品の解像度の高さに貢献している技術。昔ながらの言葉で言えば「いぶし銀」というやつだけれども、俺はそういう技術が好きだ。露伴のヘブンズドアのシーンは、そういうよさがある。
 スタンド同士で殴り合う、というのも俺は好きだけれども、露伴実写はスタンドという言葉を使わないし、スタンドの実体化も出さない。これは漫画表現への敬意にも思える。実は諦めるというのはとても大事なことで、漫画表現、荒木先生にしかできないことは実写ではやらないし触れない、という潔さがこの制作陣はとてもよいなと思う。ここでバカが「スタンドといえば実体の像、ビジョン! 誰だってヘブンズドアのフルCGが動いてたら喜びますよ!」とか言い出すと一気に陳腐化する。そういうやつは創作に関わるなと言いたい。街で生きて街で死ね。

 最近また口が悪くなっている。イライラも凄い。その代わりに創作エネルギーは溜まっているんだけれども、それを放出した後の虚脱感と絶望も凄い。困ったもんである。
 ただ最近はバカがいじくったせいでろくなことになっていないものがあまりにも多くてうんざりする。早く隕石が落ちてきてみんなチリになっちまえばいい。

 ルーブル本編で露伴の少年時代のシーンが出てきて、あまりにも普通の少年すぎて露伴らしくない、という批判を見かけた。それは一つの意見として尊重するけれども、俺は逆に実写映画としてはそれでよかったのかな、と思う。
 露伴が少年の頃から露伴として完成されていると、初恋?の相手としてのナナセの印象が薄らいでしまうし、ヘブンズドアが未完成で記憶を読めなかった、という部分にも繋がりにくい。そもそもこの少年の露伴は「プロの編集に巨乳の美少女を描けと言われて悩んでいる新米漫画家」である。成熟した露伴であればそんなものは必ず蹴るので悩みにならない。
 今回の実写映画は、原作はどうあれ、露伴の成長というのも一つの軸として存在している。その落差を強く出すのであれば、少年露伴は未熟な方がいい。


 俺は露伴のヘブンズドアの設定は面白いなと思っていて、というのも、露伴がスタンドを悪用する人間であればヘブンズドアは凶悪なスタンドになる。戦いに勝てなくても相手を本にしてしまえばいくらでも自分の奴隷にできる。しかし、そういう使い方をせずに自分の好奇心を満たして作品に活かす、という使い方しかしない露伴だからこそ、そういうスタンドを授かった……という流れが俺は好きだったりする。
 そして少年露伴は年上の女性に「覗き魔!」と言われて動揺している。しかし、成長した露伴は冒頭の古物商にやってみせたように問答無用で自分の作品のためならヘブンズドアを使って他人の人生を覗くようになっている。
 俺は少年露伴と大人露伴の違いは、この「覗き」という行為に対して躊躇いがあるかないか、じゃないかなと見ていて思った。
 少年露伴は覗きは悪いことであると理解しており、我慢できずにやってしまうけれども、それを恥じている。だからヘブンズドアも不完全にしか発現していない。
 けれども、おそらく巨乳美少女を描けと言われても拒絶し自分のやり方で創作を十年貫き通したであろう大人露伴は覗きを恥じる気持ちなんて少しもない。あればヘブンズドアを使っていない。
 大人露伴は創作者として、「覗き=非常識な悪いこと」を躊躇わないようになっている。そして「創作者というものは『非常識な悪いこと』を躊躇わない存在だ」、というテーマも、この作品には裏地としてひっそりと縫い込まれているような気がした。
 露伴以外に非常識な悪いことをしたやつは作中にもう一人いて(動機が純粋な創作である場合)、山村ニザエモンがそれに該当する。

「御神木を切って絵具にして藩に処刑された」という設定からして、「岸辺露伴の結末の一つ」として設定されているな、と俺は見ながら思ったんだけれども、やっぱりどうしてニザエモンの過去編を演じたのは露伴と同じ高橋一生だった。これは明確に「露伴とニザエモンは同じ性質の存在」ということを表現している。
 だから、黒い絵を倉庫で露伴が見つめた時、ニザエモンが現れたのだろうと思う。過去の罪や後悔に襲われるのであれば、露伴が自分の創作を後悔しているとは思えないので、露伴の生き方の罪=創作の罪が現れる。なので、露伴と同じように自分を制御できずに御神木を切って作品を完成させたニザエモンが露伴の罪として現れた。
 俺はそういう解釈で見た。
 そもそも、露伴が黒い絵を見た時も、チラ見ならともかく直視したらヤバイとわかっていながら露伴が振り向くシーンがある。露伴は「好奇心」が原動力の作家であるから、その好奇心には逆らえない。これも「覗き」のように常識にそぐわないこと、自分や他者を危険に晒す可能性のある行為を我慢できない、ということを表現している。
 俺が好きな作家にアサダテツヤがいるけれども(ポメラだと変換できない)、阿佐田が言うには、

「ギャンブルのような裏社会では、現実世界のプラスがそっくりそのままマイナスになる。逆に現実世界のマイナスがプラスになることもある」

 という。俺はそのギャンブルの部分を創作に置き換えてよく読んでいる。
 創作では現実のマイナス、非常識な行為を我慢できないことが『プラス』になる。だからこの映画は、創作者としての露伴を描いた作品のように俺には思える。
 じゃあ、少年露伴がプロ編集の言うことを聞き入れて、巨乳美少女を描く漫画家になっていたらどうなっていたか、というのも、実はこっそり表現されている。
 それが贋作家のモリス・ルブランだと俺は思う。
 モリスはおそらく売れない画家で、生きていくために贋作に手を染めた。しかし黒い絵を見て自分の後悔(おそらく贋作に手を染めたこと)を見て死亡する。死んだことはともかくとして、彼はおそらく生きていく技術であっただろう贋作を「後悔」していた。
 これは「たとえ金や評価を手に入れられたとしても、自分の心にそぐわない生き方をすれば創作者は後悔する」という、少年露伴の(というか創作者の)結末の一つとしてニザエモンと対になる形で配置されているように思える。
 つまりどういうことかというと、少年露伴がモリスのような自分の心に反した創作者になっていても、ニザエモンや大人露伴と同じように『自分の心の真実を我慢できない』創作者になっても、結末は破滅しかないということとも取れる。

「いやいや、いくらなんでも深読みしすぎだし、そんな暗い受け取り方をするのは単純に顎のうつ病が悪化しているだけだろ」と言われれば確かにその通りかもしれなくて、俺のうつは過去最大級に悪化しつつあるのはある。だから俺も別に強く誰かに押しつける気はないが、俺はこう見たよ、という意見ではある。
 じゃあこの映画がバッドエンドなのか、露伴は死ぬのか、と言ったらそういうわけでもなく、俺はエンディングで露伴が机に座って原稿に向き合うというのは、もしかしたらニザエモンのような破滅に陥るかもしれないけれども、今はまだその時じゃない、道の途中なのだという表現に思えた。制作者が意図しているかどうかはともかくとして。

「どちらを選んでも救いなどない。そもそも救われる気などさらさらない」

 それをわかっていて原稿に向かう露伴の背中、というのも、エンディングとしてふさわしいなと思った。



 で、脚本のテーマの話はともかくとして。
 全体的な映画としての構図は、ちょっとバランスが悪かった。
 もともと漫画原作だから、映画の脚本としては作られていない。だからやむを得ない部分ではあるけれども、少年露伴編やニザエモン過去編での場面転換が急なので少し話のカーブでの遠心力を強く感じ首が疲れた。
 これはプロットをトータルで俯瞰して何度も作り直し、無駄を排除した時に起きやすい。尺の都合があるので仕方がないが、無駄を排し切ると展開の繋ぎ目にプラモのランナーを雑に切った時のようなバリが残る。丁寧に無駄を排したはずなのに、現実と違ってヤスリがけしたらバリが出るんだから創作は面白い。狂気でもある。
 まぁしょうがないよねくらいの不備ではある。別に対策も思いつかない。おそらくどうしても繋ぎ目に違和感が出るのが嫌であればイチから全編に渡って作り直すしかない。それくらい繋ぎ目をどうするかというのは難しいと俺は思う。
 ルーブルでの黒い絵との対面も、露伴は記憶を消して逃げ出しただけなので爽快感はあまりなかった。別に戦って絵を倒して欲しかったわけじゃないが、せっかくナナセが出てきたのであれば、「そのときふしぎなことが起きた」くらいのノリでナナセに助けられ、いつの間にか露伴は外にいて泉さんに「露伴先生! 大丈夫ですか!?」と肩を揺すられまくってふと我に返る、とかでもよかった気はする。ヘブンズドアを使わずに終わるというデメリットはあるが。難しい。まぁ、これは本当に素人考えというやつ。
 脚本そのものの緩急は全体的に小粒だったような気はするが、もともとがスピンオフ短編なのだから映画向けのスピード感で作られていないというのは前述の通りだし、突っ込みすぎてもヤボかなと思う。
 面白かったけれども、ブルーレイを買ったり何度も見るほどじゃないかな、という、ちょっと寂しいかもしれないがそれが俺が落ち着いた感想の落としどころだ。


 それにしても、露伴の設定は上手いな、と改めて思う。
 ジョジョがどう、荒木先生がどう、というのではなく、実写作品として、『偏屈な漫画家』というのは、時間の流れをある程度キャンセルできる設定だ。たとえば20年後も露伴は死んでいなければ漫画家をやっているだろう。
 これがたとえば高校生が主人公の作品とかだと、卒業したらどうなる、就職したらどうなる、という時間の流れが発生してしまう。それを強引にキャンセルしたのがいわゆる『サザエさん時空』だけれども、露伴は自分の職業と性格というキャラクターだけで擬似的なサザエさん時空を作り上げている。
 登場人物が時間の流れによって変化していくのであれば、作品の中にその時間の動きを取り入れなきゃいけない(繰り返すが、それを嫌うならサザエさん時空になる)。そのコストや気配りをしなくていい、というのは、話の本題に物語を集中させやすい、ということにも繋がる。
 一昔前の、俺はよく知らんけれども、私立探偵のハードボイルドものに近いのかもしれない。露伴自身も、ハードボイルドによくいる義理や友情に厚いという部分はほぼないが、自分の信念を譲らない男、というのはハードボイルドの血脈を引いているような気がしないでもない。ジャンルによるラベリングを俺は嫌うけれども(イリヤの空をセカイ系と表現したりすると俺は不機嫌になる)、性質や属性を大雑把にくくれば、ハードボイルドの亜種のような見方もできるのかな、と思う。
 物語を作りやすい、というのは同時に、作者にとって負担が少ない、ということでもある。俺は最近、この世界は創作者にとって優しくないから、どうすれば作者の負担を減らせるのか、ということをよく考えるけれども(その対象は俺でもあり他のやつでもある)、そういう視点から見ると、自由業の主人公というのはやはり便利だなと思ったりする。


 最近、コメディリリーフについて調べている。
 で、全然調べが進まない。
 岸辺露伴のコメディリリーフは間違いなく泉さんなんだけれども、どうにも分析ができない。
 露伴の中の泉さんの役割といえば、偏屈な露伴の足りない部分を補うもう片方の翼、対外交渉役であり観客側(一般人側)の代弁者、というふうに分類分けはできる。
 かといって、じゃあどんな作品でもコメディリリーフは泉さんタイプにすればいいかというとそうでもない。いきなりドラゴンボールに泉さんを放り込んでも(順応しそうだが)、違和感はありそうである。
 ドラゴンボールのコメディリリーフで一番大きい存在はクリリンであり、クリリンと泉さんが同一の存在かといえば違う。それに同じコメディリリーフ同士のヤムチャとクリリンは同一の存在かといえばそれも違う。
 このように、コメディリリーフは「こういうやつ」という定義がしづらい。どういうことなのか見当もつかない。
 これはある意味で鏡のような存在であって、露伴が偏屈であれば、その偏屈度に応じてちょうどよい案配のコメディリリーフが存在し、それが泉さんである、ということなのかもしれない。ドラゴンボールでいえば悟空や他のそれぞれのキャラクターに対して無数の人間関係があり、それぞれとの反射の結論としてクリリンやヤムチャのコメディリリーフ性が確立されている、ということなのか。どうか。よくわからん。やっぱ鳥山明ってスゲーなってことか。
 コメディリリーフが設定されていない作品というのはすごく読みづらいな、と昔思ったことがあって、無理してでもリリーフは投入したほうがいい、という持論があるにはあるんだけれども、じゃあどうすればいいか、という方向性が定まらない。
 泉さんを見るたびにコメディリリーフってなんだろう、とついつい考えてしまう。



       

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