Neetel Inside ニートノベル
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わが地獄(仮)
無理する戦い(エッセイ)

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 秋山瑞人のEGコンバットが電子書籍されていた。いつの間にか。


 瑞っ子界隈というものがあるのかどうか知らないけれども、ラノベ文化から離れすぎていて、電子書籍化されているのに気づかなかった。版権的に難しいといわれていた鉄コミュニケイションも電子書籍化されていた。
 俺は電子書籍賛成派なので、素直に嬉しい。
 毎年、6月25日はUFOの日(イリヤの空ネタ)だけれども、俺はいつも「同窓会、今年もやるけど顎くる?」「うーん、いけたらいく」くらいのノリで6月頃にイリヤの空の再読をしようとしては失敗しているんだけれども(言い訳すると秋山の本は重力が強すぎて精神を持っていかれるから迂闊に読めない)、まあ岸辺露伴のルーブルの原作も読み忘れたまま十数年が経つくらいだから、現実って本当に過酷だ。

 EGコンバットのファイナルが出るかどうか、俺は知らないけれども、出ないだろうなあと思う。
 もしも俺だったら二十年以上前の作品の結末を一冊書けと言われたら苦しい。当時の文体も失っているし、プロットだってこの二十年間でネタを先取りされていて陳腐化しているかもしれない。手をつけるのは大変だと思う。
 奈須きのこがフェイトを書いていた頃に、ステイナイトの時とヘブンズフィールの時では経験値が変化してしまっていて、もうステイナイトの頃の自分には戻れないし再現できないと言っていた気がするけれども、そういう部分の変化は不可逆的で戻せるようなものじゃない。
 もし戻せるとしたら一定のフォームを崩さずに書いている人(たとえば吸血鬼ハンターDとか、スレイヤーズとか)だろうと思う。

 かといって、完結しないからEGコンバットを読む必要がないかといえば、そんなことはない。秋山瑞人というのはほんの一瞬、たとえ数行でも一気に切り崩して突き放す書き方ができる作家だった。
 だから秋山ってカルトな人気が結構あって、先鋭化してしまうファンが多かった。実際のところ、俺もその一人だった。秋山の文章を読んでしまうと、ほかの文章で満足できなくなる。文章で中毒する、というのを、イラストや映像、音楽、知名度なんかに頼らずにたった一人、自分自身の腕だけでやってしまうやつだった。本当に凄いやつだった。

 ただ、今になって思うのは、あのやり方は自分の身を削るだろうな、ということ。
 クオリティが落ちることを極端に嫌う作家だったし、ちょっとでも加速度がつかないとミナミノミナミノみたいに「あれはもういいでしょう」とやめてしまうところがあった。
 やめたことはともかくとして、一定水準以上のクオリティとか、そもそも本人のやる気とかがブーストされないと動かない。金や知名度、人気、職業としての矜恃。そういうものでは動かない。
 そういうやつが本物だと、俺は肌感で思いはする。否定するやつはたくさんいるだろうけど。


 俺は秋山に足りなかったのは「無理せず自分を騙し騙し使う方法」だったんじゃねぇかなと思う。

「おまえみたいな馬の骨が秋山を語るな」

 と言われれば俺はその通りだと思うし否定する気はない。俺は確かにそのへんのゴミだ。でも自分も書く側として、思うことは思う。
 たぶん、「こういうのが人気だから、こういうのを書けって言われたから」では動けない人だったのだと思う。俺も同じだ。世間の人気、読者がどう思うか。そんなことを考えていてまともな文章が書けた試しがない。酒飲んで書くほうがまだマシだ。
 かといって、あのクオリティを維持していたら一瞬でネタは枯渇するし、毎日が地獄になる。あんなの常人がやったら原稿恐怖症になって真っ白な画面を見られなくなる。一時期の俺のように真っ白なテキスト画面を見ただけで呼吸が浅くなって息苦しくなる。それじゃ持たない。
 世間一般の価値観には従えない。かといって自分の理想に殉じれば心身が耐えきれない。
 こういうとき、どう逃げるかというのを、誰も教えてくれない。こういうのは本人の気質にもよるし、自分自身で覚えていくしかない。
 俺はどうしたか。



 うえお久光という作家がいる。
『紫色のクオリア』という、企画の短編から文庫一冊になった小説があるんだけれども、第一部と第二部があって、俺はよく第一部の書き方を参考にしている。

 まず、説明をしない。
 紫色のクオリアは基本設定(主人公は人間がロボットに見える)ということだけを伝えた後は、時間も風景も背景もわからないまま、主人公の周囲の人たちを語り部が見たまま、散文的に展開していく。
 主人公と周囲の人たちの関係もざっくりとしか説明しかされないし、彼らが通っている高校がなになに高校なのかとか、いまが何月なのかとか、周囲の街には何があるのかとか、いきなり当たり前のようにしゃべり始めたコイツは誰なんだとか、説明がない。あってもかなり少ない。
 おそらく、うえお久光は書きながら考えていたんじゃないかと思う。
 最近流行のトータルプロット方式(始まりから終わりまですべてシーン毎にプロットを組む、名前は勝手に俺が決めた)ならもっとバランスよく展開を配置しているはずで、読者への説明を削るということはまずしない。最近は行間を読むということは奨励されず、書いてあることを正確に大量に把握するというのが褒められるらしい。全員死ね。

 俺も自分でやっていて思うんだけれども、この「読者に説明しない」という書き方は一気に作者のメンタルを回復させる。
 たとえるなら、カウンセラーに自分の思いのたけを頭に浮かんだ順にしゃべくっているようなもの。
 読者を意識してきちんと説明していく書き方というのは、就職面接での自己PRに近い。これだけで、「それ」を意識して書くということがどれだけ作者にストレスを与えるか実感が湧いてもらえると思う。
 読者を意識して、彼らの興味をひき、納得してもらう。
 その作業は就職面接だ。それを意識したら、『就職面接が得意なやつ』以外の作家は残念ながら心が死ぬ。

 だからというわけではないのかもしれないけれど。
 俺はうえおの『紫色のクオリア』は、面白いだけじゃなくて、作者が楽しんで書いていたのかな、という気持ちが伝わってくるような気がする。
 こういうときに「作者と作品は別! 一緒にするな!」とか言い出すセンスのないやつは街で生きろという感じなのだけれど、俺は少なくとも本気の作品には作者の精神状態が滲むものだと思っているし、それを感じない文章なんてエクセルの計算式と何が違うんだろう? なんの価値もない。使いにくいし。

 また、うえおのクオリアでは、1シーンが極めて短いセンテンスがかなりある。
 たとえば1シーン7行でほぼ会話文、みたいなところもある(あったような気がする)。
 今ではこういうやり方は決してしない。これをやると映像化した時に脚本に落とし込む際の負荷が上がるから(描写されていない行間をアニメの脚本家が補填しないといけない。俺は業界のことなんざ知らないが、どうせこういうやり方はあまりするなとお触れが出ているに決まっている)。

 ただ、このやり方も、「書きたいところだけ書く。要点だけを抜く」という作者にとってかなり負担の軽いやり方になる。
 しかも場面ごとに時系列が前後していたり、ちょっと時間が飛んでたりしても、繋がりに融通がきく。伸びたり縮んだりするゴムで繋がったプレート同士を自由に配置できるようなもので、いろんな構図が作れる。
 時間や場面の計算を細かくしなくてもいい。
「書きたいところだけ抜く」のメリットはこれ。


 それから最後に、短編としての分量。
 クオリアの第一部は確か100ページ足らず、もしかしたら70ページくらいだったかもしれない。第二部から本格的に中長編化していた覚えがある。
 しかし70ページでありながら、クオリアの第一部はきちんと一つの物語としてのまとまりがあった。
 それは、たとえ描写をスッ飛ばしながらでも『要点』だけは必ず抜いて書いていたから。うえお久光はそれをセンスと感覚だけでできる天才だった。
 俺はこれこそ、才能と作者の軽負担がミックスされたケースだと思う。

 1.読者への説明を放棄すること(要点だけ抜く)
 2.細かい時系列や場面転換をせずに済むよう描写を軽減すること(ぼかす)
 3.短編~中編であること(300ページ級の長篇は体力を消耗して走破できない可能性がある)

 うえお久光も執筆しなくなってしまった作家だけれども、『紫色のクオリア』はかなり作家歴の後半に書かれていて、うえおは疲弊状態にはあったと俺は推測している(少なくともその後は疲弊してしまったと思う)。
 もし仮に疲弊状態であったとするなら、このやり方というのは疲弊状態でもうえおが書けた『負傷状態での戦い方』なんじゃないかな、と俺は思っている。

 で、俺はそれを実践した。



 トカゲ人間とカクヨム掲載のダンジョン管理人。
 この二つはこの『クオリア理論』に基づいて書いている。特にトカゲ。
 俺も一つのサンプルとして低所得・非正規・精神疾患(双極性とADHD)・若い頃に書きすぎて脳にダメージを負っているという状況の物書き。
 こういうやつでも、このやり方なら書けるのか、という実験でトカゲは書き始めた。
 結果は今のところ12話まで書けている。

 トカゲのやり方が正しいとか、こうすれば面白いはずだとか、そういうことを言っているのではなく。
 ここまで疲弊した作家を書かせるにはどうしたらいいのか。
 作者にとって優しい書き方、負担をかけるばかりじゃないやり方はなんなのか。
 最近はそんなことを考えながら執筆している(少なくとも俺の今のリアル環境だと本当に自分を甘やかさないと長篇執筆など絶対にできない)。

 このやり方は当然、読者をほぼ切っている。
 うえおのようにうまくやれればいざ知らず、俺のトカゲなんかは人に読めなんて言えるようなシロモノじゃない(俺は面白いと自分で思っているし好きだけど、それは作者の好みを全面的に出してるから)。

 ただ、秋山瑞人は書かなくなった。
 俺のやり方をすればよかった、とまでは言わないが。
 もう少し、自分に優しいやり方を探してくれていれば、今でもちょっとは書いていてくれたのかなあ。
 もしそうなっても、俺はやつの書いた話なら、たとえ紙で限定生産しかなく予約しなければ買えなかったとしても、必ず買った。
 前にも言ったかもしれないが、この世界は、俺が好きだった人たちに厳しすぎる。
 俺はだいぶ前からもう、そんな全てにうんざりしている。


 イリヤの空みたいな青春SFジュブナイルを探している。
 夏になるとそういうのが読みたくなる。映画でいえば細田守の『時かけ』みたいなやつ。
 探せばあるだろう、と思って検索をかけると意外と出てこない。
 SFのない『俺妹』タイプのシチュエーション・ラブコメか(これはこれで好きだが)。
 SFではあってもいまいち設定が好きじゃないか(なんか軽めでいい感じのがいい)。
 夏っぽくないか(これはわがまま)。

 どういうわけか、あんまり出てこない。
 これはたぶん、うまいフォーマットが見つかっていないからなのかなあ、と思う。
『月姫』が売れれば吸血鬼モノが増え、『禁書目録』が売れれば学園異能が流行する。
 そんなふうに、『わかりやすくて使いやすいフォーマット』がないと、そのジャンルは増えていかなかったりする。まあフォーマットがあっても増えなかったりはするけど(ライアーゲームとか)。
 ある意味では、あまりにも有名すぎてパクってもよし!みたいな作品があったりすると増えていってよかったりするんだけれども。
 あんまりにもジャンルが枯渇し過ぎていると探すときに困る。
 よく知らないが『妖精作戦(戦争?)』とかに手を出した方がいいんだろうか。

 まぁせっかく話題にしたし、『EGコンバット』は未完でも面白いのでオススメしておく。
 月世界SFとしても、人型戦闘兵器モノとしての完成度としてもズバ抜けている。キャラクターもコミカルで面白い。
 どんな要素もチームで徒党を組んでいるわけじゃないのに一人で全部やってしまう作家だったなあと、改めて思う。



       

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