風に、潮のにおいが混ざっている。南からの風だ。と言うことは、近く雨が降るかもしれない。
「……タイミングが悪かったか」
鱗道は店の外で、ガラス戸前に置いた踏み台に腰を下ろして頬を掻いた。すっかりくたびれてきたガラス戸のステッカーシールの張り替え作業中である。以前のものは綺麗に剥がし、新品も難解な「鱗道」の二文字と最後の一文字「堂」の冠まで貼り終えたところだ。
『外に貼り付ける物ではなく、内側から貼る物にすべきだと私は進言しましたよ』
ガラス戸を挟んだ店内では、クロが脚立に乗って鱗道と視線の高さを合わせていた。素人が貼るのだから多少の曲がりは仕方がないと思うのだが、クロにとっては気になるらしくやれ右だ、少し下だと先ほどまで口煩いまでに鱗道に指示を出していたのである。
「年を取ると小さな文字が見えにくくなるんだ」
『注文段階で先方に確認すれば済んだ話です』
「次に注文する時は気を付ける」
『三年前にも同じ事を言っていました』
ガラス戸の向こうで、鴉が大きく胸を膨らませた後にすぼめて見せた。呼吸をしないクロの胸が膨らむはずもないのだが、いつの間にか細かな機構を応用することで羽毛を動かす術を身に付けていた。それを駆使してやってみせることが、溜め息をつく真似であることがいかにもクロらしい。
鱗道が質屋を始めることになり、実家を売った資金で十字路角地の空き家を購入、あちこちから協力を得て改装し、その間に手続きや届け出などを済ませて――と、奔走したのが十年程前の出来事である。人知れぬ協力者であるクロが「鱗道堂」に居着き始めたのも十年程前から、ということだ。
静かで無駄がなく、熟慮して理性的――それがクロが鱗道を協力者として選んだ理由だと十年前は言っていたが、静かなことぐらいしか当たっていなかったことに気が付いたのはいつ頃であっただろう
質屋を始めて三年が経つか経たないかという時に、クロが黙って店から姿を消したことがある。心配するシロをよそに黙って過ごしたところ、一週間前後で戻ってきた。以降は、黙って姿を消したことはない。何をしてきた、何処に行っていたと鱗道が詮索しなかったのは、あれは小さな家出だったと思っているからだ。
「俺に嫌気が差したなら、いつでも協力者は解消してくれて構わんぞ。お前の好きにしていいんだからな」
最後の文字、「堂」の作り部分のシールを乾いた指先で剥がしながら言う言葉は、小さな家出の後にクロにかけた言葉と似たようなものである。何度となく、些細であってもクロに言い聞かせるように掛けている言葉の一つだ。ちなみに、他はクロの生き物コンプレックスに関する注意文言である。
クロには終わりがない。鱗道を通して事の次第を把握し、また言葉を聞いた蛇神は『よく分からない存在だが、害がなければ構わぬよ』との一言でクロを許容した。一柱としての懐深さというより、無関心というような言い方である。が、関われないというのが正しかったようだ。しばらくクロを観察していたらしい蛇神から、後に言われたのが『終わりがない』という言葉であった。
力も持たずに意思だけがある、という不可解な存在は何かと脆い反面、意思さえ続けば存在し続けられてしまうらしい。生き物が食事をしたり、彼方の世界で力を得たりと、存在に必要なエネルギーが不要のままクロは存在していられるからだ。存在を守る術を持ってはいないが、害されなければ在り続ける。それを叶えている仕組みまでは、蛇神も興味はないらしい。
そんなクロには寿命のような終わりの目安すらない。人間でありいつか死ぬ鱗道や、蛇神に食われるか自然に消えるかしてその時を迎えるシロと違って、クロには訪れる死や終わりがない。鱗道とシロが居なくなっても、クロは世界に残り続けるのだ。
永遠に存在し続ける、ということは流石にないだろう。クロの贋作の体は、一人の人間によって作り出された以上耐久年数は存在する筈だし、頑丈とは言え限度がある。外的要因で壊れる可能性はゼロではなく、中身でありクロ本人でもある液体金属が一度漏れ出してしまえば――物質としても意思としても脆いものだ。しかし、永久に近い長さを過ごす可能性もまた、ゼロではないのである。
だからこそ、鱗道は好きに過ごしていいと言い続けた。多くを知り、学び、自身を開拓していくことを喜びとするクロにとって、失敗も迂回も大きな損失になりえない。長い時間を過ごすからこそ、多くに挑み、多くを楽しめば良い。少なくとも鱗道が生きている間であれば家出しようと旅に出ようと帰りたくなった時に帰ってきたら良いし、多くの疑問や困難を抱えたならば協力者である以上、助力は惜しまないのだから――と。長々と説明したことはないが、クロには伝わっているはずだ。
『鱗道、私は充分、好きに過ごしていますよ』
クロは鱗道に言われる度に、返事をさらりと言ってのける。決められたやり取りのように淀みなく。最初の頃はもっと機械的で形式的な返事であったと思う。それこそ、反射と気遣いしかない言葉だった。今では場合や状況によって時にはうんざりと、時には楽しげに、時には物憂げにと声や語調も工夫が施されバリエーションが豊富である。今回の返答は、少しばかりうんざりとしているようだった。
『左に曲がっていますよ、鱗道。一度に剥がさず、少しずつ剥がしていけばいいものを』
「曲がってるか? 俺には真っ直ぐに見えるんだがなぁ」
うんざりとしているのは定番のやり取りにではなく、二文字半やり続けたシール貼りの攻防に関してであるかもしれない。
最後の文字を貼り終えた後、クロは店の外に出て鱗道が座っていた踏み台から文字を眺めていた。鱗道に何度も修正させたかいがあったのか、満足のいく結果になったのだろう。それならば良かったと、鱗道は半端な高さに座り続けた腰を叩きながら店の中から満足げなクロを見ていた。
『鱗道。貴方は何故、質屋を続けているのですか?』
昼を回った明るい太陽を背にした鴉の黒は一層深い。光を受ける輪郭のみが白く輝き、光を受けない正面は嘴などの凹凸も定かではない程の漆黒を呈する。その中で、赤い目だけがはっきりと鱗道に見えるのだ。
「――まぁ、目論見が当たったのは理由として大きいな。遠くから話を持て来られることがあるのは参ったが、近くの厄介事は耳に入りやすくなった。シロやお前と過ごす時間も長く取れるし、客に愛嬌を振りまく必要もない。蛇神の代理仕事も取り掛かりたいタイミングで出来る」
クロの問いかけに、視線を左上に泳がせながら鱗道は答えていった。腕を組み、顎を撫でながら紡いだ言葉に、やがて笑みが混ざり始めて、
「そんな大層な理由を並べんでも、辞める理由がないのが一番の理由だろうなぁ」
いかにも自分らしい結論であるし、結果であると思う。
四十年も過ぎた人生で幾つも選択をしてきた。死ぬ時の後悔の少ないように、と言う選び方もしてきたが流れに任せてきた選択もある。質屋など、その典型例だ。
結局、猪狩が屋敷から持ち出した金目の物の数々を、クロの手と知識を借りながら同定し値段を付けていった。総額と詳細を記した買い取り伝票めいた物を作って猪狩に手渡すまでもなかなかの苦労である。が、後日「この値段ならサインしてやる」と帰ってきた買い取り伝票の金額は、数ではなく桁が減らされていた。しばらく揉めに揉めたが「多い分はクロの預け代だ」と言われて反論の術を失った。あの屋敷にあった物が猪狩の所有物であるならば、一応、クロも猪狩の所有物であるという主張である。もっとも、それで鱗道が折れて以降は猪狩がクロの所有権を主張したことは一度もない。
『さて、それでは鱗道。貴方の言葉を返させて頂きます。貴方は、好きにしていいんですよ』
流れで選んだ選択は、後悔や失敗などを経験して自ら望んで流れに逆らわない限り、そのまま流され続けていくものである。流れに逆らう必要がない状態に色々と理由を付けているが、流れに乗ることを望んでいるのだ。少なくとも、鱗道にとって質屋の「鱗道堂」は、そんな選択の結果である。
「……悪かった。俺は好きにしてるし、お前も好きにしてる」
鱗道は素早く両手を挙げ、降参の意思表示をした。鱗道の答えにも満足したクロが踏み台から飛び降りて地面を歩く。ガラス戸の僅かな隙間から店内に入ると、羽ばたき二つか三つで鱗道の左肩に飛び乗った。鱗道の肩は、すっかりクロの定位置の一つとなっている。
『流れで選んだ選択であろうと、流され続けるのは私が望んでいるからです』
日の光を正面に受けると、クロの印象は大きく変わる。体全体を覆う黒羽根が複雑な色を前面に押し出し、大きく鋭い嘴は鋭利さや堅牢さを誇示するように鈍く光る。そして鮮やかな黒に埋もれる赤い目は静かかつ理知的に、真っ直ぐ正面を見据えて揺るがない。
「そうかい。まぁ、せっかくの乗合船だ。気が向いてる間は協力してくれ」
今日一番の大仕事をやり終えた、と鱗道は店の奥、居間の方へと戻り始めた。店を閉めても良いかと脳裏を過ったが、流石に昼過ぎ程度では閉店にも早すぎる。
『この船の唯一気に入らない点は、客を選べないことですね』
言う間、クロの顔は途中の棚に並んでいる小さな真珠が詰められた瓶に向いていた。
それは猪狩のことか、とは聞かなかった。結局「鱗道堂」が開店してからというもの、猪狩とクロの関係は悪化の一途を辿っていった。クロは静かであることを好み、急な動きや無駄を嫌い、過度の接触も嫌う。猪狩は見事にクロの好みとは逆のことばかりを行うのだ。快活な声は店に良く響くし、店での振る舞いは思い付いたら即行動で、スキンシップも好んで行う。はっきりとした言語のやり取りが出来ない間柄であるというのに、それとも出来ない間柄であるからか、何度か店の商品をひっくり返すほどの大立ち回りになったこともあるくらいだ。クロが嫌うのも当然である。その点を擁護する気は全くなかった。
が、ここまで関係が悪化して拗れたのは、ここ数年のことである。それまでは顔を合わせる場合も猪狩の手が届かない高さを保つとか、鱗道の側から離れないという程度のものだった。猪狩が「こっくりさん」の十円玉を持ち込んだ時に急に飛び去って以降、クロは明確に猪狩を避け始めた。この時の急な変化に猪狩は勿論、当時の鱗道にも理由に見当は付かず、話を聞いてみるかと考え始めた矢先、猪狩とたわいない話をしている最中に一つの仮説に辿りついたのである。
その日は、屋敷から持ち出して鱗道が買い取りさせられた品が売れたという話をしていた。昔作った伝票を引っ張り出して残っている品を確認しながら当時の話をしていた時だ。夕方を過ぎた店内の西日に、猪狩の顔がセピア色に照らされる。その既視感に気が付いた時、思わず、ああ、と小さく声を上げた鱗道に、猪狩が何事かと聞いて来たが言わずに答えははぐらかした。
鱗道も年を取ったが、猪狩も当然ながら年を取っている。相変わらず同い年には見えない顔立ちをしているが、屋敷からクロを連れ出した時と比べて全く変わっていないというには無理があった。夕日を受けてセピア色に、眩しげに目を細めた猪狩の顔は、屋敷の中で見た唯一の写真――キジを抱いた猪狩昴の写真によく似ていた。
あの時点でも見間違うほどの面影はあったし、親戚からも似ていたと言われていたそうだから年齢が近付けば近付くほど似てくるのは当然である。加え、第二子まで授かって仕事に子育てにと奔走し続け、子ども達を揃って学校に送り出すようになったこの頃には親としての落ち着きが見えてきた――と、思う。相変わらず写真の昴とは健康そのものと言った活力は比較にもならないが、表情や顔立ちは瓜二つと言ってもいいくらいだ。
クロは、その事に気が付いたのだろう。性格も言動も全く違うというのに、昴に似てきた猪狩に対してクロは距離を取るという選択をした。否、選択をしたと言うほどしっかりした思考ではないと思われる。感情的に距離を取ったのだ、と鱗道は感じた。
クロも屋敷から出て何年も経過し、新たな知識を蓄えて学び、多くを経験して世界の一端に触れ続けている。鱗道よりも早くパソコンの使い方を覚え、新しい情報を貪欲にむさぼり、前進と開拓に余念がない。クロの根幹には生き物コンプレックスを始めとした屋敷の出来事が海の浸食を受け続けた岸壁のように刻まれているが、クロという土台を揺るがすほどのものではない。クロは、昴の呪いめいた言葉を前進する力に変えていたように、屋敷からしっかりと独立した。
その段階で、猪狩が昴に似てきてしまったのだ。クロにとっては親とも言えるし、コンプレックスの原因である昴への独立心を、クロは猪狩に発現しているのではなかろうか。つまり、猪狩と昴を重ねてしまった故の、代替の反抗期――というのが、鱗道の立てた仮説である。いかにも、時に鱗道よりも人間くさいクロらしい理由ではなかろうか。
単純に、クロが猪狩を心の底から嫌っていたのだとしても、攻撃的な行動でなければそれでも構わない。人間同士でも馬の合わない相手はいるものだし、嫌う自由は誰にでもある物だ。だが、クロが猪狩を心の底から嫌っているとは思えない。呪物の一件でも、数年ぶりにフルネームではなく『晃』と下の名前で猪狩を呼んだし、平日昼間に猪狩の家に礼をしにいった時もついてきた。嘴に咥えた二粒の真珠は、猪狩の手に落とせずに麗子に手渡す形となったが。
鱗道の仮説通り、代替の反抗期であればクロが昴と猪狩に明確な区切りを再構築できれば改善するだろう。あるいは、昴の面影が薄れるほど猪狩が老け込むまで待ってもいい。クロは屋敷を離れる時にも、昴の代役を求めていないと言い切っている。信念と感情が一致しないことはよくあることだ。だが、クロならばきっちりと折り合いを付けられるだろう。
クロに指摘したことがないように、猪狩にこの話をしたこともない。クロに関してはいつか折り合いを付けるだろうという信頼があるし、自力で解決すべき問題であると思っているからだ。猪狩に関しては、返される言葉に想像が付いているからである。「クロの好きにさせとけ」と。
「……なぁ、クロ」
サンダルを脱いで居間に上がった鱗道の肩からクロが羽ばたき、着地した先はちゃぶ台の片隅であった。クロが見下ろす先では時間のかかるシール貼りを見るのに飽きたシロが、鱗道の座布団を占領するように腹を出して眠っている。鱗道の呼び掛けにクロは返事を寄越さなかった。ただ一度、赤い目は鱗道を見上げてすぐに無防備なシロに集中する。
「狙ってるのは尻尾か?」
クロの硬い爪先が、ちゃぶ台を二度引っ掻いた。
「じゃぁ、顔か?」
再び、二度。
「腹か?」
次は一度、だった。そして低い羽ばたきが何度か上がり、ちゃぶ台から飛び降りたクロは足を畳んで深雪のようなシロの腹に落下する。十年以上、簡易的であるが合理的なルールは現在も適用され続けているのだ。
――やっぱり、心の底から嫌ってるとは思えんよなぁ。
鱗道はシロの憐れな悲鳴を聞きながらしみじみと感慨に浸り、麦茶を注ぐべく冷蔵庫へと歩み出した。