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散歩(1)

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「いいですか?近所だけですからね?近所だけ」
そう奥様に告げられて、俺もそれがいいのではないかと考えながら、よたよたと歩く冬木さんを連れ、散歩に行くことにした。季節は春。新入生や新入社員が随分と東京に流れ込む時期だ。希望に満ちた時期。同時に絶望を叩き込まれる次期。
その時期のはざまで今、新たな一歩を歩もうとしている。
「じゃぁ、行こうか」
「唐揚げさん」
奥様から薬を手渡される。
「これは何ですか?」
「リスパダールの水薬です。頓服というやつで、調子が悪いときに追加で飲むものです。もしパニックになったりしたら、冬木に飲ませてください」
「そんなに状態が悪いなら、まだ散歩はしないほうがいいんじゃ」
「健康のためには散歩はしたほうがいいんですよ。筋力もつきますし、体力がないと、どんどん健康から離れてしまいますし」
「そういうものですか」
「わかりました。必ず飲ませます。ご邸宅の周りをぐるりと回ったら帰ってきます」
「じゃぁ、行きましょうか、冬木さん」
「はい」
おれはゆっくりと冬木さんの手を取った。彼女の手は少し湿っていて、少し嫌だなと思った。
彼女のコーディネートは完璧で、やっと標準体型になったなと言った具合だった。
「太りましたかね?」
「これまでが痩せすぎてたんだよ」
「それを聞いて安心しました。ご飯はあまり食べれなかったので。病院のご飯もおいしくなかったし」
「行くよ」
「はい」
昼下がり、邸宅からの坂をゆっくりと下り、子供たちの横を通り過ぎたころだろうか。
冬木さんの様子がおかしくなった。
「職場でも、キャッキャ言われながら悪口を言われてた。あの子たちも私の悪口を言ってる」
「言ってないよ。大丈夫」
「本当ですか?」
「大丈夫」
「これは陽性症状ですか。妄想ですか?」
「陽性症状だね。大丈夫。病識をもててる。君は正常だ。帰ろう」
「その前にこれを飲んで」
「これは?」
「お母さんがリスパダールという頓服薬だって。心が安らぐ薬だって言ってた」
「毒じゃないですよね」
薬はだいたい毒だ。ある意味においては。でも薬は用法を守れば薬には違いないのだ。
「薬だよ。大丈夫」
「飲みます」
彼女は叫び出しそうな自分と毒を飲まされる妄想との間で葛藤しながら、リスパダールを飲んだ。
「帰ろう」
「帰ります」
ほんの歩いて5分の出来事だった。
それからも休みの日は毎日散歩に行く日々は続いた。彼女は徐々に調子を取り戻していった。リスパダールが要らなくなる程度には。
心なしか筋肉もついてきて健康的な肉づきになってきたような気もする。
「唐揚げさん、ありがとうございます」
「今度、唐揚げさんの家にもいってみたいです」
「俺の部屋になんていってどうするんだよ」
「航続歩行距離を伸ばしたいんです」
「意味不明なことを言うな」
そういって笑う冬木さんの顔は確かに普通の人の笑顔にしか見えない。心なしか疲れやすいのかもしれないけどな。
7, 6

  

それからも休みの日は、散歩を続けた。あくまでも休憩に俺の部屋によることはあったが、セックスをしようとは思わなかった。とりあえず話をして任天堂スイッチでゲームをする。そうして、時間が来たら帰宅をする。その繰り返しだった。地活にもよってみた。地活会場は遠く、送迎バスというものが通っており、保護者として俺はバスに乗って、地活会場に行った。そこでは、彼女よりも状態のいい統合失調症の人たちや、謎の精神疾患の人々、鬱状態で状態のいい時だけ来る人など様々な人たちがやってくるようだった。
冬木さんは、なかなかなじめずにいるようだったので、試しにほかの参加者に声をかけてみた。
「こんにちは」
「こんにちは」
そうして話は始まるわけだが、相手は俺が健常者であると知ると心を閉ざしてしまう。ただ冬木さんと話をしてほしいだけなのに。でも想像以上にみんな普通で年齢も若い印象を受けた。街を歩いていても全然わからないと思ってしまった。統合失調症だからと言って、病気で動けない人ばかりではないと再認識するのだった。ただ人より疲れやすく、中には普通に働いている人もいると地活のスタッフには聞かされた。中には、冬木さんのように、高学歴で中途で一度は統合失調症になってもまた働きだす人もいるらしい。諦める必要はないのだ。それに就労支援A型、B型、障害者雇用などの存在も知った。まだ彼女には未来が広がっているように思う。
「スタッフ以外とは会話できなかったな」
「そうですね」
送迎バスから降り、邸宅へ送る道を二人で歩く。
そんなに残念がる必要もない。生きるにはそういうこともあるということだ。代々の人間は変化もなくだらだらとした日常が続いていく。諦める必要のある日々が続いていくだけだ。非正規雇用でも統合失調症でも絶望などないということだと思う。真の絶望とは諦めたときにやってくるのだ。
「また行けばいいよ」
「そうですね」
こころなしかうなだれているようだった。
地域から孤立させてはいけない。地元や社会に居場所を多く作らなくてはいけない。統合失調症患者は薬の関係で酒は飲めない。(飲む人もいるけど)
そこでふと俺は数か月ぶりに飲み屋に行ってみようと思った。誰かと無性に話したかった。この状況について話せる人が誰かいないか、相談する相手が欲しかった。おれは孤独なのかもしれない。統合失調症患者は孤独を嫌うがゆえに集団生活を好むが、よく考えたら、俺だって、好きで独り暮らしをしているわけじゃない。さみしい最期は誰だっていやだし、可能なら、長生きしたいし、子供だってほしかった。貧困がそれを許さなかっただけだ。
真里のことを思う。真里と長生きできればそれに越したことはなかったなと思う。今はその状況が許さない。
「ねぇ」
後ろから声をかけられた。
俺はゆっくりと振り返る。
そこには妙齢の女性が立っていた。
「たかひさ、私のこと覚えてる?」
「真里」
そこには、確かに真里が立っていた。ずいぶん老けたけど、真里が。
「元気だったか?でもどうして東京に?」
「今度、コミックエッセイを出すことになって、その打ち合わせにね。まだこの辺に住んでるんだね。あいさつに来たの」
「そうなんだ」
「さっきの子は彼女?」
「いや、彼女ではない。面倒を見てるだけだ。統合失調症の女の子なんだ。東大卒らしい」
「なにそれ、話聞かせてよ」
「ネタを見つけたみたいな目をするなよ」
「いいじゃない、唐揚げさん。まだあなた、芽すら出てないんだから」
「そりゃそうだけどさ」
俺は久しぶりに真里を部屋にあげ、女と酒を飲み、セックスをした。確かに真里の感触だった。
真里とは編集プロダクションの待合室で出会った。
お互い持ち込みで、芽の出ないアマチュアだった。その当時、彼女はバイトをしながら漫画を描いていた。俺もそうだ。でもそんな生活は全然続かない。そこで俺はビルメンテナンスの職業訓練に行った。給料はコンビニのアルバイトよりもはるかに良かったし、休みも爆発的に増えて漫画を描く時間も増えた。そうしてアルバイトの真里とビルメンのたかひさは結婚した。
どっちみち就職氷河期だったし、真里はどこかの会社に就職できなかったようだしな。二人で30万あればとりあえず食うには困らないし、旅行にだって行けた。俺は資格取得の勉強をしながら、漫画を描き、そのうち時代は変わって、ツイッター漫画時代になったころ、真里と離婚した。離婚した理由はお互いデビューできそうにないとはっきり分かったからだ。それでも俺たちは仲良くやっていけそうな気がしたんだけどな。
あくまでも目的ありきの結婚だったということなのだろうか。女の愛とはまるで追悼のようだと思った。決して振り返らず、死んだ愛は墓標のようだと思った。
それがなんだ。また真里は俺の上で腰を振っていた。不思議なもんだ。
「あんたにそんなことがねぇ」
「唐揚げのXアカウントはフォローしてるよ」
「知ってる」
「真里は本名でやってるんだな」
「そうだよ。背水の陣のほうが頑張れるからね」
「そうか。気をつけてな。で、どんなコミックエッセイを書いてるんだ?」
「今はね」
「売れない漫画家の二人暮らし」
そのまんまじゃねえか。
「俺に感謝しろよ」
「感謝してます」
「次の本も出るのか?」
「今、考え中。その統合失調症の女の子のこと話してよ」
ベッドサイドに転がったペットボトルを飲みながら真里は言った。
「ダメだ」
「なんでよ」
「彼女のことは俺が抱える。色々あるんだよ、話せそうにないことが」
「そうなんだ」
あの実家はちょっとやばそうな雰囲気があるしな。ちょっと話せないよな。
「今日は寝てけよ。実家のほうの仕事はいいのか?」
「大丈夫だよ。アルバイト休んできたし」
「相変わらずだな」
「相変わらずだよ。私たち、氷河期世代だもん」
「俺が勝ち組だったり、夢を追わなかったら、子供の一人はいたのかもな」
「あんたがヒット作でも飛ばせばよかったのよ」
「いまさら言うなよ。才能がなかったんだから。夢を追うってことは、かなわない可能性を追うってことなんだからさ」
「才能がなくても、俺はお前といれるだけで幸せだった」
「・・・」
「まぁ、いいじゃない。終わってしまった事なんだから」
「人生は、幸福のために使うんだ。お前にとっての幸福は何だったんだ?」
「自己実現。夢をかなえること。」
「お前本当にコミックエッセイを一冊出せただけで幸せになれたのか?」
「いいの。これからもっと多くの本を出すから」
「人生は短いぞ」
9, 8

  

「真里、まだ独り身なのか?」
「まだ子供部屋おばさん。今は老父の介護が大変で」
「そうか」
俺はストロング酎ハイを飲みながら、ぼんやり眺めた。男の恋は終わってから始まるのだ。なんてことない。俺たちは完全に終わったのだ。
「たかひさとの10年間は楽しかったよ。子供くらい作ってもよかったかもしれないね」
「冗談言うな。俺から養育費がっぽりとる気だろ」
「もちろん」
そういって、真里はにやりと笑うのだった。
翌日、アルコールの残る頭で俺は出勤し、真里は出版社へとそれぞれの道を歩いて行った。
「真里。無理はするなよ」
グッ。力強く握ったこぶしを天高く上げ、さよならと手を振る。
俺たちはこれで終わりか?
「完全に明暗が分かれちまったな。でもコミックエッセイって次が続く保証ってあるのか?だいたい一冊くらい出して消えるイメージだけど」
そうなのだ。コミックエッセイを出した漫画家は一冊出して消えるイメージが強い。後はそれを箔にして地方紙で細々やっていくようなイメージか。食ってけるのかな?
「大作家コースは無理だよな」
俺ららしい。そういってしまえばその通りなんだけど、無理せず頑張ってほしいと思う。生きてるだけで偉いのだから。
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