新年早々、親父が、死んだ。肝硬変だった。もう何年も前から、医者からは、酒を控えるように、と警告されていたが、まるっきり無視して飲み明かした挙句、ぽっくり逝ってしまった。正月には実家に帰って、顔を見てやろうと思っていたのに、まったく突然の訃報だった。
まあ、頑固で、陽気な、親父らしい死に方だと、僕は思う。どこか満足げな死に顔だったので、医者の言うことを聞いておけば、と怒る気にもならなかった。
どこか、悲しさとも違う空虚な切なさを抱えながら葬儀を済ませ、僕と、二歳下の弟は、実家にある子供の頃の私物やら、親父の遺品やらを整理していた。
「俊一、俊次、一段落したら降りてきなよー、お茶淹れるからねー」
父の死、という悲しみの中にあっても、気丈に振舞う母の、良く通る声が、階下から響く。僕ら兄弟の相部屋は、二階にあって、子供の頃は、よく下から、こうやって母に呼びつけられたものだ。
叱られるのは、大抵僕の役目だった。
今や物置と化した僕らの部屋の、埃をかぶった勉強机を浚っていると、なんだか、硬いものがあった。
「ん……こりゃあ、何だっけ」
埃を払ってみると、それは、黒光りする掌大の鉱石だった。艶やかな光沢を放つその表面には、無数の引っかき傷があって、石の美しさを少々阻害していた。
僕には、それがどうしてここにあるのか、ちょっと見当がつかなかった。
「あれ。兄さん、それ」
石を眺める僕に、弟、俊次が声をかけてきた。僕の肩越しに、顔を覗かせて、石を見ている。子供の頃から、こいつは僕の持ち物に良く興味を示していた。玩具を知らぬ間に持っていかれたことも一度や二度ではない。当時はそれこそ、ぶん殴って泣かせたものだが、今思い返すと、次男坊らしい振る舞いのように思えて、僕は、少し、懐かしくなった。
「机の上に置いてあった。何だっけな、これ」
「覚えてないのかい」
俊次の声に、僕は首を傾げた。まるで、覚えていて当然、といった口ぶりだったからだ。
「ああ。俊次、お前覚えてるのか」
「はあ……」
僕の言葉に、俊次は大きく溜息をついた。
「そりゃあ、酷いよ、兄さん。先生が浮かばれないってもんだ」
先生――そう聞いて、僕の脳裏に、一人の女性の姿が浮かんだ。腰ほどまである黒く美しい髪、切れ長の目……
「良子先生か、中学の」
「そうそう、松永先生」
松永良子は、僕が中学二年生のときの担任教諭だ。国語を担当していて、そのルックスと耳に優しいウィスパーボイスは、多感な同級生共にも大人気だった。
だが。
「浮かばれない……そうだったな、あれは僕が三年のときか」
そんな先生が、ある日忽然と姿を消し、三日後、人里離れた山奥で変死体として発見されたのは、僕らが卒業を控えた中学三年の一月のことだった。
死体の発見された山は猟師も滅多に立ち入らない場所で、若い女性が一人、自ら立ち入るとは考え辛く、また、死体に目立った外傷はないという状況の不審さから、地元では結構なニュースになったものだ。
しかしそんな辺鄙な場所ではロクに情報もなく、八方手を尽くしての調査も虚しく、結局は事故死ということで片付けられたと聞いている。
彼女の死は、高校受験を控えた僕らに強いショックを与えたが、試験の日取りが遅れる訳もなく、悲劇の記憶は、受験への緊張感に上書きされていった。
確かに彼女の死は、僕の心にも、痕跡を色濃く残してはいる。
だが、しかし。
「おい、ちょっと待て、俊次。先生のことと、この石と、何の関係がある?」
そう尋ねた僕に、俊次は呆れたような目をして、石を僕の手から奪い取った。
そうして、こう言った。
「本当に覚えてないのかい、兄さん。――その石は、先生じゃないか」
石が、その声に応えるように、机の上でコトリと音を立てた。
俊次は何を言っている?
分からない、はずだ。意味不明なことを言っている。そのはずだ。
ならば、何故、僕の腕に鳥肌が走っているのだろう。止まらない震えの理由は、何だというのだろう。
喉が、渇く。
「兄さんが、言い出したことだよ。ねえ、先生」
弟が、僕の肩越しに、柔和な微笑みを浮かべた。机の上の石が、カタカタと鳴った。
喉が、渇く。痛いほどに。
「あっ、兄さん――」
俊次の声を振り切るように、僕は階下へと駆け下りた。飲み物が、欲しかった。カラカラの喉から、かさついた悲鳴が漏れかけるのを、必死に押さえつける。
僕は、何をした?
何故、思い出せない?
頭の中で、いくつもの疑問が、ぐるぐると巡っていた。
―続―